小学館の騒動と上善水如という言葉

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この話題についての2chのこのスレを見ていたのですが
新條まゆ小学館を離れた理由を告白
http://anime3.2ch.net/test/read.cgi/comicnews/1212931938/
このスレのこのレス
http://anime3.2ch.net/test/read.cgi/comicnews/1212931938/313

313 名前:メディアみっくす☆名無しさん[sage] 投稿日:2008/06/09(月) 01:59:36 ID:???
> 「水は低い方へ流れるって話、知ってる?わたしのように水瓶に
> 水をたくさん貯めてるような人間が、あんたみたいなダメな人間の近くにいると
> こっちの水瓶が減るのよ!」なんてことを言われたからです。が、

これ意味がちがうよ。
素直に低いところに流れる水こそが上善であるという意味なのに。
いったいなにをどうしたら、こんなに真反対の困った解釈ができるんだろう。

ブログを読んだときもこの部分何か違うよなあよ思ったのだが、このレスを読んでそういやそうだなと。313へのレスにもありますが「朱に交われば赤くなる」というほうが適切かな


ちなみこの水は低いほうへ流れるという話は老子道徳経の第八章「易性」に出てくる。「上善水如」という言葉で有名な章です
本文はこれ(本文、解釈とも明治書院「新書漢文体系2 老子」より引用)

(本文)
上善は水の如し。水は善く万物を利して争わず。衆人の悪(にく)む所に処る。故に道に幾(ちか)し。居には地を善しとし、心は渕なるを善しとし、与うるには仁なるを善しとし、言は真なるを善しとし、政は治まるを善しとし、事には能なるを善しとし、動くには時なるを善しとす。夫れ唯争わず、故に斗(とが)無し。


(解釈)
最上の善とは水のようなものである。水は万物に利益を与えながら他と争うことがない。そして皆が嫌がる低い場所にいる。それゆえに道に近い存在と言えるのである。居所は大地が善く、心は深慮なのがよく、与えるのには仁愛をもってするのがよく、言葉には嘘が無いのがよく、政治は治まるのがよく、物事を行うには能力があるのがよく、動くには時機をみはからうのがよい。水はただただ争わない。だから他から咎められないのである

解説としてはこちらがわかりやすいかな
老荘思想(老子・荘子)入門篇/補講三 上善は水のごとし

 老子は最もよい善をたとえて、水のようなものだと言っています。水は、万物の成長を助けて、しかも他と争ったりたりせず、みんなの嫌がる低い場所にいます。だから、道にちかい、ということです。道そのものではないけれど、その性質は道の働きをよく現すものだということでしょう。水のあり様をよく鑑み、そのような生き方をすれば道に沿ったものになるということだと思います。
 では、具体的に水のどういうところを見習えばいいかということで、幾つか例を挙げています。「居には地を善しとし」というのは、高いところに住むなという意味ではなくて、高い地位を望まないというこだと思います。三宝に照らしていえば「敢えて天下の先と為らず」ということに対応していることになるでしょう。「心には淵(えん)なるを善しとし」というのは、水を湛えた淵のように深く静かな心の様を保つということです。欲望のさざなみを立てない状態といえます。「与(まじわり)には仁を善しとし」というのは、要するに社会との関わりにおいては、仁を大切にする。仁というのは儒教の徳目とされていますが、老子は別に仁そのものを否定しているわけではないわけです。これについては第十三講を参照してください。
「言には信を善しとし」というのは、言葉には信用が大事ということで、まあ、嘘をつかないということがその一歩でしょう。結果的に嘘をついたことになるというのも信用を損ねます。「正には治を善しとし」というのは、物事を善悪で判断するよりも治めることが大事だということです。「事には能を善しとし」、事柄にあたっては能力を使ってそれを処理すること。出し惜しみをしたり、いい加減な対応をしてはいけません。そして、「動には時を善しとす」ということで、動くときはタイミングが大事ということですね。時を得た活動をすることが大事です。
 そして他と争わないこと。周囲を潤しながら低きに流れていけば、トラブルが生じることもないわけです。

この「易性」の文章は現在の小学館の騒動で雷句誠氏や新条まゆ氏の言っていることが本当なら、小学館の編集の人は一度読んだほうがいいんじゃないかと思う