ニコニコ動画のある動画を見て思ったこと

最近、「ブッダとイエス幻想的へ行く」という動画のシリーズの更新を楽しみにしています。

この動画はニコニコ動画にあるいわゆる幻想郷入りシリーズ*1で「聖☆お兄さん」の主人公であるブッダとイエスが幻想郷に観光旅行へ行くという内容です。原作の「聖☆おにいさん」は宗教ネタを盛り込んだギャグ要素が強めの作品ですが、「ブッダとイエスが幻想郷へ行く」では動画の作者さんが各種宗教や神話関連にかなり精通している人らしく、聖☆おにいさんらしいギャグもありつつも、宗教家としてのブッダとイエスの話や仏教、キリスト教等の宗教哲学の話なんかも出てきたりします。また、東方側も宗教に関連した登場人物も多いため、その逸話と絡めた話を上手く展開するなど非常に面白い動画シリーズだと思います。
その、「ブッダとイエスが幻想郷へ行く」の中で個人的に印象に残っている一節があります。
※以下ネタバレ注意!












17話での犬走椛とイエスとの会話。

:「それに、あの仙人が素直に諦めたとは思えません。油断のできない相手です。できれば知恵をお貸し願えませんか」

エス:「ええっと、それはちょっと難しいなあ。私達は、戦いに来たんじゃなくて、友達になりに来たんだから」

エス:「それに、今の椛さんと美鈴さんの前では、さっきの仙人さんを説き伏せては、かえって良くない気がするんだ」

:「え、それは何故ですか?」

エス:「彼女を説き伏せて、頭を下げる姿を、一度でも想像したとしたら、想像の中で椛さんはどんな顔をしていたかな」

エス:「見下すために説き伏せるのではないよ。これから友だちになるために、知ってもらうんだ」


この会話を見てネット上の議論について思い浮かべてしまいました。ネット上の議論はニコニコ大百科にある記述にあるように、
議論とは (ギロンとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

対話

恐らく(特にネット上では)最も多い議論のスタイル。目的は同じテーマで話し合い互いに理解を深めることにある。相手を論破する必要もないし、必ずしも統一された結論を出す必要もない。審判のいることが少なく、多数決に対する強制力がないネット上の議論は、ほぼ確実にこの対話のスタイルをとると言っても過言ではない。

対話形式が多いでしょう。そのため、まずは相手に自分の考えを知ってもらう事が大切かと思います。ですが、実際は相手を見下す事が目的になっているような人や、受け答えに見下すような文言を使う人がいるなど、自分の考えを相手に知ってもらう事を放棄しているような人を見かけます。もちろん、見下すような事をせず丁寧な受け答えをしたとしても相手が自分の考えを理解してくれるとは限らないでしょう。それでも、有意義な議論が難しいネット上で少しでも良い議論をしたいなら、表面上だけでも見下すような事をしない方が良いのではないかと思ったりしました。