ニコニコ動画に生きる江戸の粋と遊びの精神

杉浦日向子「対談 杉浦日向子の江戸塾」という本を読んでいたのですが、その中で杉浦日向子氏と石川栄輔氏の対談でこんなやり取りがあります。


※「対談 杉浦日向子の江戸塾」の【金儲けは二の次、三の次】(原題:江戸は偉大なテクノロジー都市だった)より
※以下「杉浦」は杉浦日向子氏。「石川」は石川栄輔氏の言葉

杉浦
実利的生産は「野暮のすること」という価値観がありましたね。もちろん「野暮がいてこそ世が動く」と江戸の人たも理解していたわけですが、非生産者でしかない「粋(いき)」な人たちを社会は受け容れていたし、その存在意義を見いだしていたのは、なんとゆとりのある社会だったのだろうと思います。
今では粋人の居場所は少なくなってしまいした。なにしろ彼らをつき動かしたのはあくまでも「遊びの精神」であって、経済なんてずっと末流のほうですもの

石川
そうですね。江戸時代に育まれたテクノロジーのベースは、「人をあっと言わせたい」の一言に尽きると思うんです。そのためには、本当にお金と労力を惜しまなかったし、それが「粋の精神」のまさに第一義だったわけですから、そんなことで儲けようなんて考えなかった(笑)
たとえば「茶運び人形」なんて実に愉快な、遊びのテクノロジー精神にあふれたハイテク商品です。あのからくりの自動制御のメカニズムは、世界のどこにもないらしい。誰が最初につくったのかは不明なんですが、おそらく人をあっと言わせたいという遊びごころの一念で、どこかのからくり師がつくったんだと思います


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石川
「遊び」のためのテクノロジーを追究していく傾向は、江戸時代の江戸で特に顕著でした。やっぱりこれは、鎖国社会だったがゆえに生まれた文化と言えるかもしれません、だからいい大人が集まって、実利的はこととは結びつかない「遊び」に夢中になった。

杉浦
「遊び」というと、明治以降の日本人は何か悪いことをのようにとらえてしまうむきがありますけれど、私は江戸の「遊びの精神」をもっと見直すべきだと思っているんです。
テクノロジー以外の、たとえば戯作とか川柳なんかの文芸も、読んでみると本当に「遊びの精神」に富んでます。しかもそれを罪悪視しないところがいい。戯作や川柳なんかでも、江戸人は、本気で遊んでいますものね。
それから錦絵だって、もとは金儲けのためではなくて、富裕な趣味人たちが私財を投じて編み出したもわけですから

石川
錦絵はもともと仲間うちに配る年賀状みたいな大小絵暦のために発明した多色刷りの技術です。錦絵で金儲けできると気づいたのは、ずっとあとのことですよ。金儲けに熱心になった明治以降、日本人は錦絵以上に独創的でなおかつ愛好されるものをほとんど発明していないと私は思っています。

杉浦
金儲けなんて二の次、三の次で、人をびっくりさせて楽しみたい、というあの精神文化は、現代人にはなかなか真似のできないことかもしれませんね。

石川
粋の精神ですね、まさに


これを読んでニコニコ動画のこの動画が思い浮かびました
D
他にもニコニコ技術部やニコニコ手芸部、ニコニコ美術部などのタグが付いたいわゆる「つくってみた」系の動画は遊び心にあふれている作品が多い。しかも作成するのに多大な労力、時間。場合によってはお金をかけている作品も少なくない。にも関わらずその作品でお金を儲けようと積極的になっている人はあまりいないように思える*1


そういう「つくってみた」系の動画を作る制作者それぞれにいろいろな考えがあるのでしょうが、個人的には上記の対談にあるような「人にあっと言わせたい」、ニコニコ動画のコメント的にいえば「すげええええええええええええ」と言われたいという気持ちがあるんじゃないかと思う。そしてその心は江戸時代の江戸にあった「粋の精神」に通じるものではないかなと


もしかしたら江戸時代以降消えかかっていた、目立たなくなっていたこういう粋や遊びの精神が、ニコニコ動画の誕生によってまた息を吹き返してきたのかもしれませんね

*1:結果的にお金になった動画はいくかありますが