江戸時代のこういう考えにあこがれる

杉浦日向子「うつくしく、やさしく、おろかなり-私の惚れた「江戸」」筑摩書房より

江戸戯作の嚆矢と目される平賀源内は、人の一生を、「寐れば起(おき)、おきれば寐、喰ふて糞(はこ)して快美(きをやり)て、死ぬるまでが活きる命」(『痿陰隠逸伝(なえまらいんいつでん)』)と、情け容赦、アラレもなく、バッサリ一刀の下に、斬り捨てています。
眠れば夢に遊び、醒めては世知辛い現実に嘆息を繰り返し、にこにこ食べてはしかめ面で排便し、たまの夜には一瞬のはかない極楽を味わい、そんなこんなで、ふと死ぬる日まで、お目出度くも生きているよ

未来に希望を持たず、さりとて、現実に絶望もせず、あるがままを、あるがまま、丸ごと享受して、すべて世と、命運を共にしようという、図太い肯定の覚悟を戯作にはあります

上田秋成の『春雨物語』でも「日出でて興き、日入りて臥す。飢ゑては喰らひ、渇して飲む。民の心にわたくしなし」というような一節があり。また江戸の庶民がよく「人間一生糞袋」と自嘲したりと。長い泰平の世と火事や地震といった災害で一瞬にして命や財産を無くしてしまう事が度々あった事がこういう考えを生んだのかもしれません

このような人生を語らず、自我を求めず、出世を望まない暮らし振り、いま、生きているから、とりあえず死ぬまで生きるのだ、という心意気に強く共鳴します。何の為に生きているのとか、どこから来てどこへ行くのかなどという果てしない問いは、ごはんをまずくさせます。まず、今生きているから生きる。食べて糞して寝て、起きて、死ぬまで生きるのだ。こう言われれば気が楽になります

私もこういう考え方に共感、あこがれを持つタイプです。でも現代だとこういう考えだといわゆる負けてしまう思考なのかもしれない