ゆとり教育が目指したもの

現在は「ゆとり教育」がいろいろ批判されていますが、それ以前はいわゆる「詰め込み教育」が批判されていました。その詰め込み教育に対する批判は相当昔からあったようようで古代中国の周から漢にかけての礼についてまとめた書物礼記」の学記編にこういう文があります

記問の学は人の師たる足らず

記問の学というのは古書を読んでただ暗記しているだけで、自分のものになっていないこと。知識を少しも活用しないという意味。そういうただ暗記させるような詰め込み主義では人の師になる資格は無いと言っている。礼記儒学者がまとめた書物なんだけど儒学において詰め込みの教育は批判されていたみたいです。ではどういう教育を理想としていたのかというのが「論語」の述而編にみえる

墳せざれば啓せず
子曰く、墳せざれば啓せず。悱せざれば発せず。一隅を挙げて三偶を以って反せざれば、復せざるなり、と


孔子が言われる、教えを受けんとする者で、自ら心に求め、疑問の解決に向かって情熱が盛り上がるようにならなければ、これをひらき教えてやろうとはしない。言うべき内容もできて、言いたくても、うまく言えなくて、口をモグモグさせる程度にまで進まないと、ひらき導いてやらない。例えば、四角なものを教えるにしても、一隅を持ち上げてみせると、他の三つの隅を自分から類推して反応を示せるようでなければ、重ねて教えることをしない。(相手がまだ理解するだけの成熟さに達していないから、静かに相手の積極的な成熟を待つよりほかにないのだ。)
※本文、解釈とも明治書院 新書漢文体系「論語」より

現代において盛んに言われる自己啓発の「啓発」という言葉の語源がこれなんだけど、たぶん「ゆとり教育」で目指した教育方法ってこういうもんなんじゃないのかなと。まずは学習意欲を高めること、そしてただ答えを教えるんじゃなくて自分で答えを見つけ出すようにすること
理想的な教育だとは思う。しかしこの教育方法は人によってかかる時間がまったく変わってくる。現在の義務教育のように必要な事を一定時間の中で教えなければならない、さらに留年がほぼ許されない。義務教育ではない高校、大学でも留年が将来的にペナルティになるような教育環境、社会状況だとこういうタイプの教育は理想ではあるけど理想のままだろう。本当にゆとり教育で効果を上げたいなら教育だけじゃなくて社会システム自体を変えるぐらいのことをしないとダメだと思う